そっ、と俺の髪に何かが触れた。その微かな気配で俺は意識を浮上させる。
見慣れない、でも確かに記憶にある天井を視界に収め、なかなか働こうとせにずふわふわする頭で、ここはどこだったかを思い出す。
「…………かんとくの……いえ……?」
目覚めたものの、すぐには眠気が抜けきらないために呂律が回らず、なんとも気の抜けた声になってしまった。
「起きたか」
「んー……でも眠い……」
こちらが寝起きのためか普段よりも穏やかな声色と、未だ髪を撫でる優しい手つきが拍車をかけているようだ。
なんだかまだ起きたくない。そう思ってしまった。
「また寝るつもりか?」
呆れをはらんだ笑い声まで心地良い。
俺は再び閉じられようとしていた瞼を無理やりこじ開けた。身体を起こしながら目を擦る。
「……ピアノ」
監督のグランドピアノ。それが奏でる音で俺は眠気に誘われ、ソファで眠ってしまったのだ。
確かドイツのなんとかという有名なブランドで、しかも高級品らしい。でも、俺にはその良さがよくわからない。
遠慮なく大きな欠伸を零す。声は聞こえなかったが、また笑われたのは気配でわかった。
「こういうの苦手なんですよ。嫌いじゃないんだけど、眠くなる」
「お前は授業でも寝ていたな。音楽鑑賞となるといつもそうだ」
「……別に俺だけじゃないし。クラスの半分近くは夢の中だったし、ジローだって」
「アレはそれ以外でも常に、だ。今更だろう」
「教師がこんなこと言ってていいのか?」
普通は、寝ないように言ってやれとか起こしてやれとか、言い聞かせるものじゃないだろうか。
でも本当に今更だから仕方ないんだろう。他の教師達も諦めてるみたいだし。
「まだ眠そうな顔だな。紅茶を淹れよう」
眠気覚ましだ、と言って監督がキッチンへ向かう。俺は思わずその背中に声をかけた。
「俺、コーヒーの方が好きなんですけど」
「知っている」
そう言ったくせに、キッチンから漂ってくるのは紅茶独特の香り。マジで紅茶淹れる気だ。一般的には眠気覚ましといえばコーヒーだと思うんだけど。聞いたことがないのか。
しばらくして、監督はトレイを手にして戻ってきた。のっているのはやっぱり紅茶だ。
ふてくされた表情で見上げれば、監督は微笑んでカップをテーブルに置き、俺の隣に腰を下ろした。
「紅茶が嫌いとは言っていなかっただろう?」
「……言ってない」
特に好きでもなければ嫌いでもない。俺は紅茶を一口飲んだ。
俺は紅茶の種類に詳しくない。今自分が飲んでいるものだって、何という種類なのかさっぱりわからない。それでも美味しいと思う。
監督が淹れたものだから。
それが一番しっくりくる理由かもしれない。監督が俺に淹れてくれた紅茶はいつだって美味しかった。
キレイに組まれた監督の脚。俺はそこに添えられた手をとった。
「宍戸?」
「俺、監督の手好きだ」
監督の手を両手で包みながら俺は続ける。
「眠くなるくらい心地良いピアノを弾いて、美味い紅茶を淹れて。暖かい手」
そう思っていることをストレートに言葉にすると、自然と柔らかく微笑むことができた。
監督が大袈裟におどけてみせる。
「好きなのは私の手だけか?」
今の俺はきっと、さっきとは違って、悪戯を仕掛ける子供のような笑みを浮かべているだろう。
「そうとは言ってないだろ」
わかってるくせに。
up 10.2.28