5.はじめまして、さようなら。

「な……なんなんだよアイツ……」


木の幹に凭れ掛かり、身を潜める。
走り回った所為で乱れてしまった息は簡単には治まってくれそうにない。しかし、それでも少しでも気配は消したい。
大きく息を吸い、ゆっくりと静かに吐き出す。


「くそくそ……絶対狂ってやがる」


向日が悔しそうに顔を歪ませ、思い切り赤髪を掻き毟る。
その時だった。


「っぁ……!?」


右腕に激痛が走った。
慌てて見ると、二の腕の部分が赤く染まっていた。
間髪を容れずに銃声が聞こえた。二発目のそれは、向日の顔の横すれすれを通り、背後の木の幹を深く抉った。


「マジかよ……っ」


吐き捨てるように悪態を吐くと、一気に走り出す。
身軽さには自信がある。あの跡部だって認めてくれたんだ。


「追い付かれて堪るか……!!」


樹々を上手く使い、身を隠しつつ相手との距離を離す。その差は確実に開いていた。


「ぅわっ!?」


突然、ガクンと向日の身体が傾いた。咄嗟に両腕を突き出したお蔭で、顔面強打は免れた。
急いで立ち上がろうとしたが、またその場に崩れてしまった。
足が重い。どうやら一番心配していたものが来たようだ。


「く、そ…っ、燃料切れかよ……っ!!」


認めたくはないが、自分は体力がない。それは痛い程テニスの試合で痛感していた。
背後から茂みを駆け抜ける音が聞こえる。


「っのやろ……っ!!!」


音が大きくなってきた。開いていた筈の距離がまた縮み始めていた。


「動けっ!動けよっ!!」


気が焦るばかりで身体は一向に動いてくれない。


もう駄目だ。


そう覚悟したと同時だった。
短い悲鳴と何かが落ちるようなドサリという音が聞こえてきたのは。
そして。


「今の内に逃げるよ!!」


強い力で身体を引き起こされた。
足が思うように動かない為、半ば引き摺られるようにしてその場から駆け出す。
向日は夢中で走った。
自分の腕を掴んでいるのが誰かなんて考えなかった。
ただ無心に走った。










だいぶ息が落ち着いてきた。
向日は仰向けの状態から身体を起こした。その時に思い切り手を突いてしまい、顔を歪める。
腕の負傷のことを失念していた。まだこんなに痛むというのに。


「あまり動かさない方がいいよ。また血が止まらなくなる」


辺りへと視線を忙しなく向けながら、向日の隣りに座る人物は静かに言った。


「俺の支給品にも限りがあるからね」


そう言った彼の手元には、支給”武器”である救急箱が入ったリュックサックが転がっている。
向日は丁寧に包帯の巻かれた右腕をそっと押えた。
白いそれには既に赤が滲んでいる。


「向日……だったよな、確か。氷帝の」
「そういうお前は六角の佐伯だっけ?」
「ああ」


追っ手が迫っていないことを確認すると、佐伯は向日に向き合い肩を竦めてみせた。


「初日に教室で会ったけど、まさか初めましてがこんな形になるとはね」


もっと違う感じがよかったな、と佐伯は小さく呟いた。


「あのさ……ありがとな。助けて貰った上に、手当てもして貰っちまった」
「いいよそんなの。それよりさっきの……」
「ああ……」
「……立海だよね、彼」
「……うん」


肯定したくないというように、ためらいがちに頷く。
今、自分達がいるこの空間には肯定したくないものが多過ぎるのだ。
現実とは、認めたくない。
しかし、今も感じるこの腕の痛みは現実。まやかしでもなんでもない。


「そういや、お前が支給されたのって包帯とかなんだろ。さっきは何をやったんだ?」


彼のことを考えるのは止めよう。
向日は軽く頭を振った。


「貰った……とでも言うのかな。引き受けたと言うべきか」
「引き受けた?」
「これは、元はバネさんのなんだ」


そう言った佐伯の手には、冷たく鈍い光を放つボウガンが握られていた。


「バネさんって……黒羽だっけ?パワーの」
「よく知ってるね」
「一応な。でもなんで黒羽のなんて………あ」


そこまで言ったあとで気付いてしまった。


「向日の思っている通りだと思うよ」


一度瞳を閉じ、息を吐き出す。
瞳を開いた佐伯はゆっくりと、しかしはっきりとした口調で言った。


「バネさんは………彼は、もういない」
「そんな……」
「俺が見つけた時にはもう……。そのことをどうしても受け入れることが出来なくてね。手も頬も冷たいのに、いつまでも待ったよ。彼が目を開けてくれるのを。でも、やっぱり駄目だった」
「佐伯……」
「悔しいよ……本当。どうしてこんなことになっているんだろう俺達……」


佐伯の指先が白くなる。それだけ拳を握る力が強く込められているのがわかる。




佐伯が黒羽から武器を譲り受けたあの時。実はあれ以前にも彼らは再会していた。
それはゲームが開始されてすぐのこと。
鉢合わせた二人はお互いが戦う意志がないことを確認した。
そして、お互いの目的も。




「俺もバネさんも、ただこの狂ったゲームを終わらせたかった。どうにかして、帰る為の方法を探そうって言ったんだ。皆で……全員で帰ろうって。なのに……どうして……」


掛ける言葉が見つからない。
向日は唇を噛んだ。
彼は軽い言葉なんて望んじゃいない。今自分が何かを言ったとしても、どんな言葉も意味を成さないだろう。


「………狂ってる」


呟きながら空を仰ぐ。樹々から覗く色は吐き気がするほどに青かった。
今ほどにあの白い雲を憎らしく思ったことはなかったに違いない。


「本当にそう思うよ。もう……人が死ぬのは見たくない」


向日は隣りに視線を向けた。佐伯は先程の向日と同じように空を仰いでいた。
しかし、その眼差しは虚ろで。
その危うさに、何かを言わなければという衝動に駆られた。


「なあ佐…」


その時、佐伯の背後で何かが光った。


「避けろ佐伯っ!!」


叫ぶと同時に向日は佐伯の身体を突き飛ばした。
倒れ込んだ二人の頭上を物凄い早さで何かが通り過ぎた。


「銃……!?見つかったのか!?」
「っ……でも!」


銃声はしなかった。
向日は素早く辺りに視線を走らせた。そしてある一点で目を据えた。


「……矢だ」
「え?」


向日の視線の先には、草が一部はげた地面に深く突き刺さる、一本の矢。
純白の矢羽が黒い地面にとても映える。


「さっきのとは……違う奴……」


向日を追ってきた彼とは別の人物。
二人の額から汗が伝う。
背後を窺ってみるが、矢を放った人物はもう姿をくらましてしまったようで、気配はなかった。


「ちっ……」


どこだ。どこにいる。


奇襲をかけられ、神経は敏感になっていた筈だった。
隙などなかった筈なのに。


「ぅぐ……っ」
「え……佐伯!?」


背後を取られた。


呻き声に振り返った向日の目に飛び込んできたのは、身体を二つに折った佐伯と、その背後に立つ……


「……え……?お前は……」


向日が目を大きく見開く。


「なん、で……?」


佐伯のエンジのジャージが見る見る濃い色で染まっていく。


「なんで……どうしてだよ!?なあ!?」


何故?
その言葉しか出てこなかった。



お前は絶対に大丈夫だって、絶対に乗ったりなんてしないって、信じてたのに。



その言葉に、赤い矢尻を構えた彼が、薄く笑った。


「っ―――!!」


足元から崩れるようにその場にへたり込む。
向日は彼を凝視することしか出来なかった。
身体が恐怖にわななく。

突然、目の前の彼が悲鳴を上げた。
何が起きたのかと目を大きくして驚いていると、彼の右手の甲が赤く染まっていることに気が付く。その中央が銀色に光っている。
それは、先程佐伯に手当てして貰った時に見た小型のハサミだった。
佐伯は振り向きざまに、自分の背後に立つ人物を蹴り上げた。その際に先程負った背の傷が疼いたのか一瞬顔を歪める。
しかしすぐにもう一撃を入れると、相手を自分達から遠くへ蹴り飛ばした。
相手が起き上がる前に駆け寄り掴み掛かる。しかし彼もやられてばかりではない。
佐伯を押し退けると、勢いよく佐伯の腹部に肘を入れる。動きを止めた佐伯だったが素早く持ち直す。
相手との激しい取っ組み合いが始まる。

不意にバランスを崩した相手の身体が傾いた。
佐伯はその僅かな隙を見逃さなかった。相手に全身で体当たりしたのだ。
互いの身体が宙に浮く。
彼らの足下には何もなかった。
向日はハッとした。


その先は、崖だ。


「危なっ……!!」


慌てて駆け寄ろうとする。
しかし佐伯はそんな向日をちらりと見、穏やかに微笑んだのだ。



こいつ、わざとだ。



向日の背がぞくりと震えた。
この先は崖になっていると知った上での行動だったのだ。


そんなの、



「絶対イヤだっ!!!」



向日自身何が起こったのかわからなかった。
ただ腹が立った。許せなかった。


「っ……向日!?」
「はぁ……はぁ……っ…、なに、勝手なことしてんだよ」


気が付いたら佐伯の手を掴んでいた。
二人分の体重を支えている右腕が悲鳴を上げる。完全に傷口が開いたようだ。
でも、そんなものはどうだっていい。


「お前っ、もう人が死ぬのは見たくねえって言っただろうが!!何考えてんだよ!!」
「何って……」


向日の凄まじい剣幕に佐伯が狼狽える。
彼には向日が何に対して怒りを覚えているのかわからないのだ。
一度大きく深呼吸し、キッと睨みつけ語りかける。彼にしては低い声で。


「……自分はどうでもいいとか思ってんじゃねぇよな。ふざけんな。命を無駄に扱うんじゃねぇよ。お前だって大切な”人”なんだよ。……ふざけんな」



「っ、俺だって人が死ぬのは見たくねぇよ!!!」



「むか、ひ」
「さっき初めて会話したとか、んなもん関係ねぇだろ!?道連れなんて馬鹿な考えすんじゃねぇ!!お前は死んじゃいけない人の中には入ってねぇのかよ!!もっと言ってやろうか」



「死んでいい奴なんて一人もいねえんだよっ!!!」



「……わる、かった」


佐伯がくしゃりと顔を歪める。
プイッと顔を逸らし、向日が呟くように言った。


「わかりゃいいんだよ。……手を放そうなんて考えたらぶっ殺すぞ」
「……矛盾してるよ」


そう苦笑し、自分を支える手をしっかりと握り返した。


up 08.03.29